最高裁判所第一小法廷 昭和62年(あ)519号 決定 1990年11月16日
主文
本件上告を棄却する。
理由
第一上告趣意に対する判断
弁護士稲川龍雄外四名の上告趣意のうち、判例違反をいう点は、所論引用の各判例はいずれも本件とは事案を異にして適切でなく、その余は、単なる法令違反、事実誤認、量刑不当の主張であって、すべて刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。
第二職権判断
所論にかんがみ、被告人に本件火災事故に関する過失の罪責があるかどうかを検討する。
一 原判決及びその支持する第一審判決の認定によると、本件の事実関係は、次のとおりである。
1 (イ) 被告人は、旅館業等を目的とする有限会社川治プリンスホテルの取締役であり、代表取締役である夫の小黒太平と共同して川治プリンスホテルの経営に当たっていたが、小黒太平がホテル経営の意欲を失っていたこともあって、常時同ホテルにおいて執務し、直接従業員を指揮監督して日常の業務を行うとともに、同ホテルの建物の維持管理はもちろん、新築、増改築を実行し、これらの業務と関連して防火防災管理の業務も行っていた。(ロ) 同ホテルでは、支配人(店長)が任命されていたが、同人は、日常の備品購入等小額の支出は別として、それ以上の支出をするには、経理を統括する被告人の承諾を要し、一般従業員の採用、給与の決定等についても最終的には被告人の承諾が必要であり、防火防災管理の業務の面でも、その管理運営についてはその都度被告人の指示を受けて処理していた。(ハ) 同ホテルでは、被告人及び小黒太平以外に、消防法八条一項にいう「防災対象物の管理について権原を有する者」に当たる者は存在せず、また、同項に規定する防火管理者の選任も行われておらず、支配人以下の従業員の中に実質的にその地位にあったと認められる者も存在しなかった。
2 同ホテルは、鉄骨木造亜鉛メッキ鋼板葺一部陸屋根五階建の旧館(延床面積一五三七・二二平方メートル)と木造一部鉄骨亜鉛メッキ鋼板葺一部瓦葺二階建の新館(延床面積一四六九・八七八平方メートル)とが接着し、新館と旧館の一階及び二階の各中央部が連絡通路によって結ばれた構造となっており、宿泊収容人員数は約二五〇名である。
3 昭和五五年一一月二〇日午後三時ころ、新館西側に接着する婦人風呂外側の旧露天風呂用地において、アセチレンガス切断機による鉄柵切断作業に従事していた建設会社の作業員が、不注意により、切断機の炎を婦人風呂外壁の間隙に流入させたため、同所付近から火災が発生し、火災は、壁体内を上昇しながら婦人風呂屋根裏に達して天井に燃え移り、充満した火災及び煙は、屋根裏に接着していた新館二階への階段の天井及び側壁を燃え抜けてフラッシュオーバー現象を起こし、これにより大量の煙が流出した。そして、煙は右階段部分を上昇して、新館二階廊下を東方に進み、新館と旧館の接合部である連絡通路を経て旧館に流入し、さらに、旧館中央階段及び西側階段を上昇して、三階、四階に充満し、これに続いて火炎が広がっていった。ところで、同ホテルの新館と旧館との各連絡通路部には防火戸の設置がなく、旧館二階ないし四階の中央及び西側の各階段部分は防火区画となっていなかったために、多量の煙や火炎が短時間に、しかも容易に旧館二階ないし四階の各階段、廊下、客室等に流入、充満した上、同ホテル従業員による適切な火災通報、避難誘導が全くされなかったため、婦人風呂及びこれに隣接する大浴場並びに旧館の二階ないし四階にいた宿泊客及び従業員の相当数は、外部に脱出することが困難となって逃げ場を失い、多量の煙、一酸化炭素等を吸入し、あるいは新館屋根等に飛び降りざるを得なくなり、その結果、老人会の団体客を含む宿泊客及び従業員のうち合計四五名が死亡し、二二名が傷害を負った。
4 ところで、同ホテルにおいては、消防法によって要求されている防火管理者の選任及びその届出はもとより、火災発生時における宿泊客の避難誘導等に関する消防計画の作成及びその届出は一切行われておらず、消火、通報及び避難の訓練等は一度も実施されていなかった。また、同ホテルの旧館は、建築基準法令によって、各階段部分を防火区画とし、外壁の開口部である旧館一階、二階と新館一階、二階との各連絡通路にそれぞれ煙感知器連動式防火戸を設置することを義務付けられており、被告人は、旧館以外の建物部分から火災が発生した場合、これらの設備が設けてあれば、煙及び火炎の流入、拡大を防止し、旧館の宿泊客等の生命・身体の安全を確保できることを、所轄藤原町消防署及び栃木県土木建築課の改善勧告等により認識していたにもかかわらず、これらの設備を設けていなかった。なお、同ホテルにおいて、右各設備を設けることを困難ならしめる事情は存在しなかった。
5 本件火災については、同ホテルにおいて、あらかじめ消防計画を作成し、これに基づき避難訓練を実施して、従業員間に避難誘導の方法を周知徹底させるとともに、新館二階と旧館二階との連絡通路部分に煙感知器連動式甲種防火戸を設置し、かつ、旧館二階ないし四階の中央及び西側の各階段部分を防火区画としていたならば、右防火戸及び防火区画の設置により、少なくとも約三〇分間は旧館内への煙の流入を阻止することができ、避難誘導時に若干の混乱が起こったとしても、訓練を受けた従業員の避難誘導により、旧館内の宿泊客及び従業員の全員は、右の三〇分間内に安全な場所に避難することができたと認められる。
二 右の事実関係によれば、被告人は、小黒太平と共に川治プリンスホテルの経営管理業務を統括掌理する最高の権限を有し、同ホテルの建物に対する防火防災の管理業務を遂行すべき立場にあったことが明らかであるが、宿泊施設を設け、昼夜を問わず不特定多数の人に宿泊等の利便を提供する旅館・ホテルにおいては、火災発生の危険を常にはらんでいる上、被告人は、同ホテルの防火防災対策が人的にも物的にも不備であることを認識していたのであるから、いったん火災が起これば、発見の遅れ、初期消火の失敗等により本格的な火災に発展し、建物の構造、避難経路等に不案内の宿泊客等に死傷の危険の及ぶ恐れがあることはこれを容易に予見できたものというべきである。ところで、被告人は、同ホテルにおいて、防火管理者が選任されていなかったのであるから、必要と認められる消防計画を自ら作成し、あるいは幹部従業員に命じて作成させ、これに基づく避難誘導訓練を実施する義務を負っており、また、被告人は、旧館二階ないし四階への煙及び火炎の流入、拡大を防止し、宿泊客等の生命、身体の安全を確保するため、建築基準法令に従い、自らの責任において、新館二階と旧館二階との連絡通路部分に煙感知器連動式甲種防火戸を設置し、旧館二階ないし四階の中央及び西側の各階段部分を防火区画とする義務を負っていたというべきである。そして、被告人が右の義務を履行するため必要な措置をとることを困難ならしめる事情は存在しなかったところ、本件火災による宿泊客及び従業員の死傷の結果については、被告人において、あらかじめ消防計画を作成してこれに基づき避難誘導訓練を実施するとともに、右防火戸・防火区画を設置していれば、双方の措置が相まって、本件火災による宿泊客等の死傷の結果を回避することができたものと認められる。
してみると、本件火災による宿泊客等の死傷の結果は、被告が右のような義務があるのにこれを怠ったことによるものであるから、被告人には過失があり、被告人に対し業務上過失致死、同傷害罪の成立を認めた原判決の判断は相当である。
第三結論
よって、刑訴法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 大堀誠一 裁判官 角田禮次郎 裁判官 大内恒夫 裁判官 四ツ谷巌 裁判官 橋元四郎平)